世界最古の鋼鉄戦艦が語る、英国工業・オートバイ文化・近代日本の原点

日本海海戦直前の旗艦「三笠」艦橋の様子
Z旗と中央の東郷平八郎司令長官

戦艦「三笠」が英国ヴィッカース造船所で進水した時の様子

記念館として大正14(1925)年10月、満潮を利用して現在の場所に引き入れられ艦首を皇居に向けて固定された。
2026年7月、日本船舶海洋工学会が「ふね遺産」に認定した旧日本海軍の記念艦がある。神奈川県横須賀市、三笠公園内に鎮座する「戦艦三笠」。
三笠は、日露戦争において大日本帝国海軍連合艦隊の旗艦を務め、日本海海戦においてロシア帝国のバルチック艦隊を完膚なきまでに撃滅せしめ世界海戦史上例の無い完全勝利を収めた。
「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」のZ旗はあまりにも有名である。
レプリカではない。
現存する世界最古の鋼鉄製戦艦であり
世界三大記念艦のひとつ。
退役後の1926年、大正15年に艦首を皇居方面に向け永久保存されて以来、2026年で保存100周年という節目を迎えた。
英国車専門店 KNOW THY BEAST が、なぜ戦艦三笠を語るのか。
KNOW THY BEAST代表 鈴木の曽祖父は戦艦三笠に由緒を持つ。そして三笠は単なる軍艦ではなく英国の工業力、機械技術、国家戦略、そして日本の近代化が交差した「巨大な工業製品」、そしてその時代は、紛れもなく英国製オートバイが誕生し、マン島TTが始まり、機械が単なる道具から文化へと変わっていく時代であり、我々英国びいきの者たちは今一度その時代を思い返し研鑽し直さなければならないという思いからである。
本稿では、英国車を愛する皆様に向けて、一隻の英国製戦艦が象徴する「日本とイギリスの深い歴史の絆」、そして現代日本の工業と地政学の原点を、ある一人の海軍軍人の物語とともに紹介していきたい。
英国ヴィッカース社が建造した、もうひとつの「英国製機械」
戦艦三笠は、日本で建造された艦ではない。1902年(明治35年)英国ヴィッカース社によって、バロー・イン・ファーネス造船所で建造された、英国製の前弩級戦艦である。
19世紀末から20世紀初頭の日本は、まだ工業国家として発展途上にあった。自国で世界水準の鋼鉄戦艦を建造する技術も、重工業の基盤も十分ではなかった。
そこで日本は、当時の覇権国家であった大英帝国と同盟を結び、英国の造船技術、機械工学、兵器製造、運用思想を吸収していった。
同年1902年に締結された日英同盟は、単なる友好関係ではなくロシア帝国の南下政策を阻止するための、極めて現実的な地政学上の同盟であった。
そんな昔の話を...などと言ってはいけない。我々が日々向き合う英国製モーターサイクルは、まさにこの時代に生まれた機械であり、戦艦三笠の時代と英国旧車の時代は、むしろ同じ工業文明の延長線ととらえるべきなのだ。
そして奇しくも1902年、英国ではトライアンフ社がモーターサイクルの発売を開始する。
1902年、トライアンフがオートバイを走らせた時代
20世紀初頭、創業者ジークフリート・ベットマンが自転車メーカーとしてトライアンフ社を発展させ、同社はやがて自転車にエンジンを搭載するという新しい機械文化へと踏み出す。
トライアンフが初めてオートバイを発売した年は、一般に1902年とされている。当初はベルギー製ミネルバエンジンを自転車フレームに搭載したまさに「モーター付き自転車」と呼ぶべき存在で、この一台こそが、のちに世界的名門となるトライアンフ・モーターサイクルの始まりである。
この1902年に、日本はイギリスと日英同盟を締結、三笠は英国で建造され日本海軍の中核となっていく一方、英国本国ではトライアンフが初のオートバイを世に出し、個人の移動手段としての内燃機関が新しい時代を切り拓いていた。
三笠とトライアンフ黎明期のオートバイは、同じ時代の英国工業が生んだ姉妹製品とも言えるのである。
片や国家の命運を背負う大戦艦。
片や個人の自由と速度を象徴するオートバイ。
スケールは違えども、そこにあるのは同じ英国の機械文明であった。
BSA ― 銃砲からオートバイへ受け継がれた精密加工の思想
英国工業を語るうえで、BSAの存在も欠かせない。
BSA、 Birmingham Small Arms Company は、英国バーミンガムを代表する銃砲メーカーだった。バーミンガムは「世界の工場」と呼ばれた英国工業都市群の中心のひとつであり、銃器、金属加工、機械部品、工具、自転車、そして後のオートバイ産業を育てた土地である。
BSAは当時、世界最大級の銃砲・兵器メーカーのひとつであり、その高度な金属加工技術と量産技術を背景に、自転車部品、そしてオートバイ製造へと進出していった。
英国オートバイは、単なる趣味の乗り物として生まれたのではない。銃砲、工作機械、精密加工、軍需産業といった、国家の基幹産業から派生した工業製品でもあった。
BSAのオートバイに見られる質実剛健なつくり、実用性、整備性、そして耐久性は、まさに銃器メーカーとしての出自と無縁ではない。
三笠が英国の重工業・造船技術の結晶であるならば、BSAは英国の軍需産業と量産技術が二輪車文化へ転じた象徴である。
ノートンとマン島TT ― 速さが技術を証明した時代
同じく英国オートバイ史において重要な存在が、高級車メーカーノートンである。
ノートンは1898年、ジェームズ・ランズダウン・ノートンによって創業された。初期には自転車部品やフレームを手がけ、1902年頃にはエンジン付きモーターサイクルの製作へ進んでいく。
ノートンの名を一躍高めたのが、マン島TTレースである。
マン島TTは1907年に始まった。現在でも世界で最も危険かつ伝統ある公道レースとして知られるが、その黎明期は、単なる速さの競争というよりも、オートバイという新しい機械の信頼性、耐久性、実用性を証明する場であった。
舗装も未熟で、ブレーキもタイヤもサスペンションも現代とは比較にならないプアーな時代である。ライダーは機械の限界を読み、路面を読み、エンジンの鼓動を感じながら走った。
1907年の第1回マン島TTでは、ノートンのマシンがツインシリンダークラスで勝利を収め、以後ノートンは英国スポーツモーターサイクルの象徴的存在となっていく。
ここでもまた、英国工業の本質が見えてくる。
机上の理論ではなく、実地で試す。
過酷な環境で壊れないことを証明する。
速さと耐久性を同時に追求する。
これは三笠のような軍艦にも、トライアンフ、BSA、ノートンのようなオートバイにも共通する英国機械文化の精神である。
明治・大正の日本に入ってきたオートバイ
では、同じ頃の日本では、オートバイはどのように受け入れられていたのか。
明治末期から大正期にかけて、日本にも欧米製オートバイが少しずつ輸入されるようになる。 軍・皇族関係者、外国人居留者、富裕層、などに向けて限られた台数が入ってくる程度であった。
当時輸入された車両には、英国製のトライアンフ、BSA、ノートン、ダグラス、アリエル、マチレスのほか、アメリカ製のインディアンやハーレーダビッドソンなども含まれていた。
当時の日本では、道路事情も燃料供給も整備環境も未成熟であり舗装道路は少なく、地方では馬車や人力車が日常の主役であった。自転車までもが高根の花であり、オートバイは、現代でいえばプライベートジェットのような極めて高価で特別な存在であり、誰もが乗れるものではなかった。
明治・大正期のオートバイは、単なる交通手段というよりも、近代化の象徴であり、機械文明そのものへの憧れであった。
大正期になると、サイドカー付きの大型オートバイも輸入され、軍将校用、皇宮警察用、新聞輸送等の、業務用途として使われる例が増えていく。また、モータースポーツや信頼性試験のような催しも行われるようになり、日本でも「走る機械」を評価する文化が少しずつ芽生えていった。
そして国内でも、国産オートバイ製作への挑戦が始まる。明治末期には島津製作所による国産オートバイ製作の試みがあり、大正期には宮田製作所などが国産オートバイ開発へ進んでいった。
(陸王内燃機が、日本国内でのハーレーダビットソンVLの正式ライセンス生産を開始するのは、世界大恐慌後の1934年まで待たねばならない。)
もっとも、当時の日本製オートバイはまだ黎明期であり、性能、信頼性、量産体制の面では欧米製に学ぶ段階であった。これは戦艦三笠の時代の造船業と同じである。
まず英国から学ぶ。
実物を輸入する。
分解し、理解し、模倣し、改良する。
そして自国の工業へ昇華し凌駕していく。
この過程こそが、近代日本の工業化の本質であった。
現代日本の根幹は、第二次世界大戦後の高度経済成長だけで作られたわけではない。それ以前の明治から大正期、そして第一次世界大戦後にかけて、英国から機械文明を吸収していった長い蓄積があった。造船も、鉄道も、兵器も、自動車も、オートバイも、その根はつながっているのである。
対馬沖海戦と、曽祖父・鈴木秀次海軍大佐
1904年開戦の日露戦争、そして 対馬沖日本海海戦は、近代日本が初めて世界の列強と正面から対峙した戦いであった。
この歴史の現場に立ち会った一人の海軍士官がいる。
弊社 KNOW THY BEAST 代表・鈴木の曽祖父、鈴木秀次海軍大佐である。
曽祖父は海軍兵学校第31期。明治33年、1900年に江田島の海軍兵学校へ入校し、明治36年、1903年12月14日に海軍少尉候補生となった。そして翌1904年9月10日、海軍少尉に任官。東郷平八郎元帥、当時は海軍大将の座乗する旗艦・戦艦三笠に士官として乗込みとなる。
1905年5月、対馬沖日本海海戦。
世界の近代海戦史に「Battle of Tsushima」として刻まれる大海戦である。
ロシア帝国のバルチック艦隊は、ヨーロッパから喜望峰を回り、アフリカ沖、インド洋を経て、極東へ向かってきた。当時の日本にとって、それはまさに国家存亡の危機であった。もしこの艦隊に日本近海の制海権を奪われれば、日本の継戦能力は大きく損なわれ、国家の将来そのものを失っていた可能性がある。
曽祖父は、その国家の窮地に、砲兵少尉として三笠の艦上にいた。
それは、一人の砲術士官にとっても、国家にとっても後戻りのできない戦闘であったはずだ。近代国家として歩み始めたばかりの日本が、国家存亡を懸け帝国ロシアと正面から向き合い、海上で命運を決する。
三笠は旗艦として連合艦隊を率い、バルチック艦隊撃破という奇跡を起こす。
この勝利は、単なる戦術上の勝利ではなく
日本が近代国家として生き残るためのターニングポイントだった。
しかし、その背景には、日英同盟という冷徹な地政学上の戦略があった。
日本にとって、ロシアの圧力は国家存亡に直結する問題であるとともに、当時、世界の海を支配していた覇権国家大英帝国にとっても、ロシアの南下政策は極東だけでなく、インド、中央アジア、海上交通路に関わる重大な脅威であったのだ。
つまり日英同盟とは、理想論ではなく、互いの国益が一致した世界戦略であった。英国から導入した艦艇、技術、訓練、情報、国際金融、そして日英同盟という外交的後ろ盾。これらが組み合わさり初めて、日本はロシア帝国に対抗することができたのだ。
イギリスはロシアを抑えたい。
日本は国を守りたい。
その二つの思惑が交差した場所に、戦艦三笠があり、対馬沖海戦があった。
曽祖父が乗り込んだ三笠は、まさにその時代の日英関係を象徴する艦であった。英国ヴィッカース社が建造した鋼鉄の戦艦に、日本人が乗り、日本の国家生存を懸けて戦う。そこには、英国の工業力と日本の覚悟が重なっていた。
この戦いで、日本は日露戦争の帰趨を決定づける。
日露戦争後、極東の島国であった日本は、やがて第一次世界大戦で連合国側として戦勝国となり、「五大初めて国」の一角として国際秩序に参加するまでになる。そして日本は、国際連盟の場で人種差別の撤廃を訴えた。これは、当時の欧米列強が当然のように維持していた白人優位の国際秩序に対し、初めて有色人種国家が正面から異議を唱えた出来事でもあった。
もちろん、その後の歴史は単純ではない。日本自身も資源問題、海上交通路、東亜の秩序、軍縮、経済圏など、安全保障上のさまざまな要因のなかで大陸政策へと進み、そして、かつての同盟国であったイギリス、さらにアメリカと、日本は次第に対立していく。
英語を学び、アメリカで講演し、やがて英米を仮想敵とする時代へ
曽祖父・鈴木秀次の軍歴は、この日本近代史の光と影をそのまま映している。
曽祖父はその後30余年間、海軍士官として甲板士官、分隊士、分隊長、副官、副長、艦長などを歴任した。海軍大学在学中には2年間英語を専攻し、後に兵学校の一学年下であった山本五十六と共に駐在武官としてアメリカへ派遣され、米海軍軍人に向けて英語で日本海軍の伝統について講演を行っていたと伝えられている。
英語を学び、英米を知り、国際感覚を身につけた海軍軍人であった。山本五十六と共に、アメリカを知るためのあらゆる研究をしていたともいう。
しかし、第一次世界大戦後、国際情勢は大きく変わる。
かつてロシアに対抗するために結ばれた日英同盟は1921年に終焉へ向かい、日本は1930年、ロンドン海軍軍縮条約の時代を迎える。
巡洋艦「出雲」艦長時代、大佐であった曽祖父は軍令部出仕となり、大本営にて、英米を仮想敵国とする作戦立案に当たることとなった。
かつて同盟国であったイギリス。
学び、交流したアメリカ。
その国々を、次の時代には仮想敵国として想定しなければならない。
この地政学の厳しい転換に、対英米戦略に通じていた曽祖父は何を思ったか。
日米の国力差は普通に新聞に載っていたそうで、日清戦争にせよ日露戦争にせよ国力で負けている敵に勝利した訳で、国力の差で敗北するとは主張し辛かった時代。
陸海軍ともに精神論が科学的根拠に勝るかのような論調が広がる時代に、科学的な分析において勝算の見込み乏しく、悲観的な戦略以外を見出しがたいなかで曽祖父は胃を患い、予備役に編入され現役から退いたと伝えられる。昭和8年まで海軍軍政史編纂業務嘱託として海軍に協力しながら、そのまま終戦を迎えた。
現代日本の政治にも相通じる「大本営発表」という言葉とともに、人類史上まれに見る惨状へ至ることは、既知の事実である。
同盟をどう活かすか。
情報をどう集めるか。
危機をどう予測するか。
技術をどう取り入れ、自らの力へ変えるか。
これらはインテリジェンスとしての国家戦略だけでなく、現代のビジネスにおいても極めて重要な問いである。
曽祖父と戦艦三笠の縁
曽祖父と戦艦三笠の縁は、対馬沖海戦だけで終わらない。
1924年12月 戦艦三笠が退役、記念艦として保存されることとなる。当時舞鶴海軍軍需部長の任にあった曽祖父は、三笠に装備されていた主砲弾を個人的に払い下げを受け、国家の至宝として故郷・愛媛県の禎瑞嘉母神社に奉献している。
三笠の主砲弾。
それは単なる鉄の塊ではない。対馬沖海戦を戦い抜いた日本海軍の記憶であり、近代日本が国家存亡の危機を乗り越えた象徴であった。
三笠の主砲弾は戦後、楢本神社境内に移され、戦艦大和の主砲弾とともに奉献された。そして、往時の日本海軍の偉容をしのぶものとして、また日本国体護持のために命を捧げた軍神関行男中佐の偉功を顕彰し、その霊を慰めるため、いまも楢本神社境内に安置されている。
三笠の主砲弾と、大和の主砲弾。
日露戦争の記憶と、太平洋戦争の記憶。
近代日本の始まりと、その苦難の終着点。
そして、その後の高度経済成長。
私が英国という国と、その機械文化に強い敬意を抱く理由はこの歴史の一端にある。
世紀を経ても変わらない地政学の現実
日露戦争から120年以上が過ぎた。しかし、ロシアの地政学的行動原理――勢力圏の拡大、緩衝地帯の確保、不凍港への出口を求める発想――は、今なお世界情勢に影を落としている。
歴史は単純に繰り返すのではない。
しかし、地理と国益の構造は、驚くほど長く残る。
三笠の歴史は、単なる過去の物語ではない。まさに現在進行形の地政学的事象でもある。
二つの海軍旗が示すもの ― ホームページに掲げた理由
お気づきの方もいるかもしれない。
当ホームページには、大日本帝国海軍旗、すなわち海上自衛隊旗でもある旭日旗と、英国海軍旗ホワイトエンサイン、White Ensign を掲げている。
旭日旗は、曽祖父が戦艦三笠の艦上で仰いだ旗であり、私自身のルーツそのものである。そしてホワイトエンサインは、三笠を生んだ国であり、トライアンフ、BSA、ノートンを育て、マン島TTを生んだモーターサイクル発祥の国、すなわち私たちが向き合う英国車の母国たる大英帝国海軍の旗である。
日英同盟の時代、この二つの旗は同じ側に立っていた。
三笠を建造した英国の技術。
それを受け継ぎ、近代化を遂げた日本。
そして、その英国が生んだオートバイ文化を、いま極東の地日本で受け継ぐ私たち。
二つの海軍旗は、この百年を超える日英の技術と歴史のつながりへ敬意を示すものである。KNOW THY BEASTが英国車を扱うことの意味を、私たちはこの二旗に込めている。
英国車に向き合うことは、単に古い機械を修理し、走らせることではない。地政学を知り、その背後にある歴史を知り、機械工学、内燃機工学、情報、金融、貿易、職人文化、国家、戦争、安全保障を理解することでもある。
工業製品の歴史を理解し、
英国旧車に向き合う我々が、これからどこへ向かうべきなのか。
戦艦三笠の保存100周年という節目に、 再考していただければ幸いである。
英国旧車は、単なる移動手段ではない。
それは、歴史と工業と思想を宿した機械である。
KNOW THY BEAST ― 汝の獣を知れ。